成島焼和久井窯

  1. HOME
  2. 成島焼和久井窯

「炎」と「情熱」を持って、今泉の「土」と生きる

今泉の陶土に魅力を見出し、
「長井焼」として知られる窯元に。
そして「成島焼」の復興と
「焼き締め」に浮かび上がった金窯変。
さらには、色彩ゆたかな「彩磁」。
成島焼和久井窯は、幾度となく
研究と失敗を繰り返し、技術を高め
「土」を素材に「美」を追求し
表現し続けています。

和久井窯と成島焼の出会い

長井今泉の地に
拓かれた和久井窯

山形県長井市今泉山の西の麓一帯は、昔から良質の陶土が出ると伝えられる場所です。古くは須恵器を焼いた窯跡や須恵器の陶片が沼地や田から出土し話題となりました。今から160年ほど前の化政時代に、加賀の国の九谷焼の陶工が米沢藩を訪れ、今泉の陶土に惹かれ、すり鉢などの日用品を焼いたとも言い伝えられています。その後しばらく焼き物は行われていませんでしたが、昭和12年、山形市の平清水焼で窯の経営経験を持つ和久井利蔵が、今泉山の良質な陶土に注目して移り住み、陶管、瓦の製造を始めました。

利蔵の息子、富二夫は、今泉のものは粘性が強く、ろくろが引きやすい良質な陶土であることに気がつき、有名な京都の仁清焼に使われているものにも匹敵すると発見します。そして家業の陶管業から独立して陶芸家になり「和久井窯」を立ち上げました。次第に技術力や独自性を高めながら「長井焼」として人々にも注目されるようになりました。

復興で生まれた
新たな成島焼の魅力

現在、和久井窯の代表的な焼き物になった「成島焼」は、米沢の地ですでに途絶えてしまっていたものでした。それを再び復興させたいと願った米沢の公人や文化人が、富二夫の評判を聞き、協力を仰ぎます。一度は断ったものの、何度も依頼に訪れる人々の情熱に押され、伝統を活かした郷土色豊かな陶芸作品をつくりたいと願うようになり、研究の日々が始まったのです。昔ながらの成島焼は、黒釉になまこ釉でしたが、その前はあめ色に藁白釉でした。すでに資料がなかったため、江戸時代など古い成島焼をもとに研究と創作を続けます。

そもそも成島焼は日用品雑器が主流だったため、流通の発達とともに安くて軽く丈夫な品々に変わってしまったのが、途絶えた原因でした。富二夫はただ復元するだけではなく、草木灰や釉薬を使用する基本的な技術は守り、伝統を損なうことなく作品にオリジナリティを加え、この先も美術品として人々に求められるよう高めなければいけないと考えました。そして筆では描くことのできない、釉が織りなす焼き物だけの表現で、宇宙に引き込まれるような美しさで魅了する、和久井窯ならではの成島焼を確立させたのです。

広がる藝術、人々に癒し

・三種の技法からなる「成島焼和久井窯」の樹立

富二夫は、成島焼の復興と向上に情熱を注ぎながらも、もともと手掛けていた、釉薬を施さず高温で焼き上げる「焼き締め」にも力を入れていました。成島焼の研究が忙しく、思うように創作できなかったものの、大学や修行から息子の修が戻ると、共に作品づくりに励むようになります。温度や湿度、窯の中の環境や状態を二人で何度も模索。そして器の肌に金色に浮かび上がる「金窯変」が発見されるようになりました。

修は、日本で初めて人間国宝になった富本憲吉の弟子で、同じく人間国宝となった近藤悠三に学びました。半透明で、角度により様々な彩を魅せる、富本憲吉の特徴的な彩磁。故郷に戻った修は、彩磁に何度も擦った泥漿を筆を用いて立体的に描きだす技法など、自らの世界観を広げていきました。そして成島焼和久井窯は「成島焼」「焼き締め」「彩磁」と異なる三種の焼き物で表現する窯元になったのです。

・土と向き合い「用」の「美」を表現し続ける

和久井家がこの地の陶土に注目して移り住み約90年。陶土をしっかり練りあげること、生きた花を何度もデッサンし作品に取り込むこと、失敗を恐れず挑戦し高みを目指し続けること。基本的な動作をおろそかにすることなく、今日も成島焼和久井窯では、真っ直ぐに土と向き合い、新たな藝術を生み出しています。

「作品をつくる時には目指す造形があるわけですが、計算だけでは創り出せない焼き物の難しさがあります。だからこそ面白い。一番の楽しみは、日々努力と創造を繰り返しながら、焼き上がりに窯を開けて、一番最初に自分の作品に出会えること」
と修は語ります。

「作品は、使う人の人生をより豊かにするもの。作品の使い方、飾り方は自由でいい。お気に入りを見つけて、手にした人の生活や生き方に取り入れ、心を癒していただけたらと思います。」