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成島焼の歴史

米沢藩の財源として生まれた成島焼。
暮らし寄り添う日用品から、
心を豊かにする、質の高い美術品に。

米沢藩の財源として生まれた成島焼。
暮らし寄り添う日用品から、
心を豊かにする、質の高い美術品に。

米沢藩の財政と
暮らしを支えた
成島焼

天明元年(1781年)、米沢藩藩主 上杉鷹山公が藩の財政を支えるための殖産興業の一環として米沢市成島の地に窯を築かせたのが始まりと言われています。藩の御扶持方(おふちかた)であった相良清左ヱ門厚忠(さがらせいざえもんあつただ)は、相馬焼に学び、その技術を伝承しました。

成島焼の特徴は、鉄釉に灰釉を二重がけするなまこ釉です。その名前は海にいる海鼠(なまこ)に由来しており、中国や朝鮮より伝わったとされ、佐賀県の唐津焼などでも知られる古い技法です。福島の会津本郷焼や、秋田の楢岡焼があり、東北各地にも伝承されています。中でも米沢の成島焼は青みが強く、主に日用品雑器を中心とした水がめ、片口、平鉢、飯鉢など、藩内の需要に合わせ制作されました。

明治末まで窯が続いていましたが、鉄道の普及により安価で良質な瀬戸物に押され、次第に需要が減り途絶えてしまったのです。

成島焼の復興と
新たな世界観の
創造

陶芸家 和久井富二夫は、長井の今泉で、この地の陶土が良質であるとし、家業の陶管業から独立して創作活動に励んでいました。

長井焼として人々に知られるようになった頃、米沢の公人や文化人が富二夫の評判を聞きつけ「途絶えてしまった成島焼の復興に力を貸してほしい」と依頼されます。資料も残っておらず一度は断ったものの、伝統を活かした郷土色豊かな陶芸作品をつくりたいと、古い成島焼を元に長年研究を重ねました。

それから10年かけ、素朴で渋い成島焼の風合いを生み出すことに成功。もともと成島焼は日用雑器と道具としての焼き物でしたが、富二夫の技術と感性を織り交ぜながら、茶陶器・花入といった分野まで領域を広げ、現代の暮らしと人々の心に寄り添う、美術品としての質の高い作品が生み出されるようになりました。